山北町ってどんなところ?①~遺跡編~9千年前から続く人々の営み

神奈川県山北町」と聞いてピンとくる人はそう多くないかもしれません。

山北町は神奈川県西部に位置し、面積は県内で横浜市、相模原市に次ぐ3番目の広さを有します。
町面積の約9割が山岳地帯で、見渡す限り山、山、山です。
人口は2024年3月時点で9410人。
「県民の水がめ」とも言われる「丹沢湖」もあり、緑と水で陰ながら県民の生活を支えています。

このシリーズでは、そんな山北町の歴史を振り返りながら町の特徴を紹介していきます。
今回は、町内で見つかった遺跡とともに町の歴史を見ていきましょう。
(※この記事は、山北町教育委員会発行の「歴史・文化から学ぶ わたしたちの山北」や山北町史などを参考に作成しました)

赤い斜線部が山北町。神奈川県内で3番目の面積(google mapより)

9000年前には人々が生活/ダムに沈んだ「尾崎遺跡」

町内の小高い山の上にある「河村城」跡周辺では、約9千年前の縄文土器の破片が発見されていて、このころには既に人々が生活していたと考えられています。

町内には複数の遺跡が点在し、現在は丹沢湖(三保ダム)の底に沈んでしまった「尾崎遺跡」もその一つです。
丹沢湖の工事が始まったのは1970年。その直前に文化財の記録保存のために行われた調査でこの遺跡が発見されました。
今から約6千年ほど前から約2千年にわたって人々が暮らしていたとされ、竪穴住居30軒などが見つかりました。
当時の人々は、近くで採れる「緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)」という石を使って石斧(せきふ)などの石器を作っていたと考えられています。

「尾崎遺跡」から出土した縄文土器の数々(山北町史より引用)
丹沢湖の位置図(google mapより)

町中心部には弥生時代の遺跡

町中心部の山北中学校の裏山には、弥生時代のものとみられる「堂山遺跡」があります。ここでは、稲籾(いなもみ)の痕跡が付いた土器が出土し、周辺で米づくりが行われていたことが分かりました。
このほか、お墓や食料を保存するために使われていたと考えられる「円形土坑(どこう)」も発見されていて、「関東地方の弥生時代の始まりを考える上でとても重要な遺跡」とされています。

また、古墳時代の遺跡としては、人骨とともに鉄製の矢じりの破片が出土した「水上(みずかみ)古墳」(向原)や、「南原古墳」(岸)があります。
「南原古墳」からは、人骨とともに勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、直刀などが出土し、これらは6世紀末から7世紀初頭のものとみられています。また、人骨には多くの副葬品が添えられていたことから、地域の有力者が埋葬されていたと考えられています。

堂山遺跡、水上古墳、南原古墳の位置図(google mapより作成)

山北町の歴史は約9千年も前から振り返ることができ、脈々と人々の暮らしが紡がれてきたことが分かりました。
次回は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて山北町とその周辺を治めた河村一族について紹介します。